物語のなかをぐるぐる廻る

すきなものをならべていく

祖父母のいない家への帰省

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もう誰も住まない祖父母の家に久々に行った。

家主であった祖父と祖母は亡くなってしまい、家族に残されたのは「後片付け」と「様々な手続き」だった。それらは全て、母と母の姉妹が1ヶ月に2回ほど集合して少しずつ進めているので、わたしは普段は関係なく過ごしていて、「おばあちゃんち」に来たのは本当に久しぶりだった。なぜか「おじいちゃんち」ではなく「おばあちゃんち」になるのはなぜなのだろう。

山梨にある広い一軒家は、わたしがこれまで見てきた生活の中で、一番賑やかなものだった。客間があって、お客さんが本当に来て、ちゃんとした茶器やお茶菓子が用意されていた。孫が大集合する夏休みと年末年始は、特別な時間のように思えた。厳しいのに、全てが甘い場所。祖父母は敬語で喋ることを勧める人たちだったので、わたしは必要以上に甘えることはできなかったけれど、何かあっても許される場所であることは理解していた。

7段ある雛人形。きゅうりとなすに足をつけたお盆。屋上で見た星。祖母に当ててもらうドライヤー。畳の部屋の静けさ。庭の池。金魚と、猫よけのネット。何度各地に旅行しようと、湘南で大学生活を満喫しようと、わたしにとっての夏休みの風景の原点はここにある気がした。

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買い手が決まれば、なくなってしまう家。わたしにはそれを維持する力も意思もないから、ただ静かに、母が疲弊しないかだけを見守っている。

今回も、手伝うつもりで行ったら、ただ叔母にもてなされてしまった。唯一手伝ったのが、祖父母に来ていた大量の年賀状をシュレッダーにかけることだった。故人のものを全て取っておくことはできない。母の代まで取っておけたとしても、もしわたしの代までそれが降りて来たら、もう大抵のものにわたしは価値を感じられないだろう。「かわいそう」や「申し訳ない」ではなく、生きている人が、自分で欲しいかで判断する。母たちが実家の片付けの難儀さに悩まされているのを見て、わたしが本格的に片付ける立場になったときはそうしようと、ひっそりと心に決めていく。

葉書たちは、ただ印刷のものもあれば、丁寧な筆で書かれた文字もあった。母や叔母が送ったものもあった。それらを仕分けしながら、母とぽつぽつと喋る。

「もしさ」
「はい」母の呑気な返事。
「もし、今突然お母さんが死んじゃったら、わたし、誰に連絡していいかわからないわ。友達とか、きっと知らせたい人もいるだろうけど」
「そうねえ。昔は電話帳作ってたけどないからね」
実際、祖父母は丁寧に作られた昔ながらの手書きの電話帳があったから、そういった連絡に苦労しなかったらしい。
「携帯見てよ」
「携帯ってパスワードあるし、見ても重要な人かはわからないよ」
「まあね。じゃあ4人でいいや。わたしは」
「誰」
「AとBとCとD」まあ、一度は聞いたことのある母の友人の名前。
「すでに覚えられてない、どこかに書いておいてね」
「えー」
「わたしが死んだらさ、どうする?」
「えー。昔は連絡網とかあったけど、今はないしなあ」
「だよね。でもほら、サークルとかは、誰か一人に連絡すれば、その人が回してくれるから。会社は会社に言えばいいし」
「その一人もわからん」
「じゃあMでいいよ。高校にもサークルにも回してくれる!便利!(ひどい)」
「お葬式って、来て欲しいと思うの?」
「それは、来る側の自由でいいよ、死んでるし」

ゆるい空気の中で話しながら、わたしはまだ全然、近しい人の死を想定していないし、その準備をするということは、思った以上に大変そうだ、と考えていた。人ひとりがいなくなることを迎え、乗り越えていく。実際の行動としては「手続き」だったり「片付け」だったりするのだろうけど、その労力が、その喪失の重みなのかもしれないと思った。まだそんな苦労はごめんだ。

「うわあ」
「何」
「やたら字の綺麗な人だなと思ったら、おばあちゃんの書いたものだった」

祖母は書道も絵もうまい人だった。

「あはは」

流れる筆運びの見える文字に、元気な顔が浮かんだ。夏休み、絵の描き方を教えてくれた祖母。結構厳しかった。ふと気づくと、○○してくれたな、という思い出ばかり出て来る。そろそろ、もらう側を卒業して、あげる側にならないとな、と思った。夏はあと何回来るだろうか。

 

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