物語のなかをぐるぐる廻る

すきなものをならべていく

1日1回、10年間の活動を作品にする

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昨日は編集スパルタ塾のゲスト回2回目で、中村勇吾さんがいらっしゃる回だった。
今回わたしはプレゼンできなかったので、よくないものをアップして来年の受講生を戸惑わせることはしないようにしようと思うのだけれど(万が一見たい方がいたらお声がけください)、記録だけはしておく。課題は以下。

 

あなたは、ある活動を、1日1回、10年間にわたって、毎日やり続けるとします。
そして10年後の最後の日にそれらを統合し、一つの作品とします。
1日1回、どのような活動を行い、最後にそれらをどう統合しますか?


この活動全体について構想し、プレゼンしてください。
構想する案については、以下の要件を満たしてください。
・自分自身にとって、それが毎日続けていく価値がある行為であること
・出来上がった作品が、単なる10年間の総和以上の意味をもつものとなること

 

正直、見た瞬間「うわっ」と思った。
なぜなら、わたしが大学時代所属していた 加藤文俊研究室 ::: fklab は、

  • 様々な地域を回って有名でもなんでもない人たちのポスターを作り続けたり
  • 考現学今和次郎さんを読んで街の「今」を残したり
  • 「一日一録」として何かを毎日行って展示したり

していて、もうなんていうか、「記録」と「継続」は生活の中心にあって、あまりにもどんぴしゃだったから。守備範囲内であり、逆に、苦手意識もあった。一度考えたことがこれ以上出てくるのか、みたいな不安があった。

 

そんな研究室で集大成としてわたしが卒業制作でやったのは、「自分の身の周りの人を取材して残し、手紙として送る」活動で、「その活動自体が関係性そのものに影響を及ぼしてくる」という狙いだった。メッセージ性が一番強く出るのはその人にとってパーソナルな意味で大切な「人」だということを信じていた。

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展示した制作物

だけど、今回わたしは、「人の写真もの」は絶対にやらないぞ、と思っていた。特に、小田和正さんの「あなたにー会えてー本当にーよかった」が聞こえてきそうなもの。その力の強さを知っていても、もはやありきたりだと思ったし、自分の中でも二度も三度も似たようなものをつくるのはなあ、っていう気持ちがあった。むしろ、中村勇吾さんだし、もっと生身がデータになって集まった結果、ウェブやインターフェースらしく面白くなるものにしよう、と考えていた。物語的メッセージ押しというより、ロジカルでドライな発見みたいなところを目指した。(そうなったかはさておき…)

 

でも、結果は、感動系の、“人”を素直に残すものが優勝した。
毎日食卓を囲む両親を撮り続けるもの。


まじかー!と思った。結局かー!と。
結局かー!が素直な感想だったけど、これはもう完全に負けだった。

誰にもダメって言われてないのに勝手にダメなことをいっぱい作って負けたっていうだけの話なのだけど、これはすごく大事なことで、この敗因を分解してちゃんと覚えていないといけないな、と思った。何度も「これを他人に伝えるには?」にぶつかりながらも、パーソナルでエモーショナルなことしか考えられなくて卒業制作を身の回りの人の記録にしたくせに、その唯一の得意分野をなぜか「禁止事項」にしたのは視野が狭いとしかいいようにない。中村さんを調べることは大事だったけど、「本にしちゃいけません」とも「デジタルっぽいものにしましょう」とも言われてなかった。BRUTUSはそこに枠組があったけど、今回はなかったんだなと。

なんなら「自分にとって大事な人を記録するのはもうやったし違うことしたいな」も今回の課題には関係ないし、「過去やったものの改良なんてちょっとずるい気がする」も今思えば意味がわからないし、いいと思えばやればよかったのだ。仕事の経験を生かして勝負する人がいるように、一回向き合ったことのあるテーマならそれを普通に活かせばよかったのか、というのは不思議なことにかなり新発見だった。

「写真を撮ることによって毎日両親が一緒に食卓につくようになります」はもうめちゃくちゃめちゃくちゃ悔しかった。個人的なメディアが人の関係性を変えていく、その瞬間こそ大学でずっと見つめてきたことだったから。プレゼンが始まった瞬間先がすべて見えてしまうほど分かりすぎて、なんでこれが自分でやれなかったんだろう、と。

 

それにしても、やっぱり人は信じていることしかできないな、と思わず苦笑いしてしまった。優勝した「両親の写真」は、年齢を重ねる対象として面白そうだと分かっていても、すごく響くテーマだと知っていても、わたしには作品にできなかった。父親と溝だらけのわたしは「出来上がった本があれば寂しくない」なんて言葉は言えない。プレゼンがとても素敵でめちゃくちゃ共感したのだけれど、こういう感情知ってる、であり、本を読むときみたいな感動であり、自分に重ねきれなかった。わたしは家に対してあんなに純粋な真心で喋れない。その人が信じていることでしか人は動かない、とまた痛感した。そうして振り返ってみると、今回のわたしの提案は、「興味のあること」ではあっても「これをしたい」っていう気持ちはなかった。自分にとって大切なものを考えるべきだった。

中村さんが「感動を抜いて評価しても良かった」「意外とみんな自分と対話するんだなと」とおっしゃっていたところを見ると別にこういうパーソナルな物語が事前から大正解だったわけではないと思われるけれど、それでも、人を動かす何かを持っているかとか、そのために丁寧に考えられているかとか、軸が通っているかとか、色んなところが足りなかったし、何より熱量が足りなかった。これじゃないとわたしはダメだ、っていうものが。

もちろん、優勝した方のプレゼンだけじゃなく、色んなところで反省した。
個人を超えた意味がどこまで出せていたかというと少なくとも伝わりやすいものではなかったと思ったし、作品の空気があんまり伝わらないものになってたから、見せ方・仕上がりの価値がもう少しはっきりと出せたらよかった。
あと、途中考えた「毎日植林」とかまで思考を飛ばしたものにじっくり向き合えばよかったかもしれない。

一個一個の反省は次に持っていくしかないので頑張って活かします。実は次はさらに苦手に思えるテーマなのだけど。修行だ……。笑 期間も短いし、早く頭を切り替えよう。